芸術と地域の力で健康を支える——「文化的処方」の総説論文発刊(8月26日)
「健康のために、薬ではなく文化を処方する」。
そんな発想が、世界的に注目されつつあります。今回、Yonago Acta Medica 誌に、文化的処方(Cultural Prescribing)についての総説論文を発表しました。
文化的処方とは、芸術活動、音楽、文学、映画、博物館や図書館、地域の祭り、伝統文化など、人々にとって意味のある「文化」とつながることを通して、健康やウェルビーイングを支えるアプローチです。社会的処方(Social Prescribing)の流れとも深く関係しています。
なぜ「芸術」ではなく「文化」なのか
文化的処方で大切なのは、必ずしも「芸術作品をつくる」ことではありません。
音楽を聴く。本を読む。映画を見る。博物館を訪れる。地域のお祭りに参加する。昔から伝わる料理や工芸に触れる。近所の図書館やカフェで誰かと出会う。
こうした営みもまた、その人の記憶やアイデンティティ、土地とのつながりを形づくる「文化」です。論文では、文化を芸術より広い概念として捉えることで、地域の日常にすでに存在しているさまざまな資源を、健康を支える「文化的健康資産(cultural health assets)」として捉え直せるのではないかと論じました。
つまり文化とは、健康になったあとで楽しむ「ぜいたく品」ではなく、人がその人らしく生きることを支える資源そのものなのかもしれません。
文化はどのように健康に作用するのか
文化活動の効果は、「楽しいから気分がよくなる」というだけではありません。
論文では、その作用を個人―対人関係―コミュニティ―政策・制度という複数のレベルから考えています。
個人レベルでは、感情の表現や調整、没頭する経験、自己効力感、意味やアイデンティティの再構築などが考えられます。対人関係のレベルでは、文化活動を介して人と人との緩やかなつながりや居場所が生まれます。さらにコミュニティでは、社会関係資本や地域への愛着、住民参加が育つ可能性があります。
そして重要なのは、その外側にある社会構造です。
「近くに美術館がある」だけでは、誰もが参加できるわけではありません。お金、交通手段、障害、言語、仕事、介護、差別などによって、文化へのアクセスは大きく左右されます。したがって文化的処方は、単に個人の症状を改善するだけでなく、誰もが文化に参加できる条件を社会の側につくれるかという問いにつながっていきます。
「紹介」するだけでは文化的処方にならない
医師が患者さんに「近所の合唱サークルに行ってみませんか」と紹介する。これも文化的処方の一つの形です。
しかし、それだけでは十分ではありません。
「処方」という言葉には、医療者が「あなたにはこれが必要です」と決めてしまう危うさもあります。本来、文化との出会いは本人が選択できるものでなければなりません。この論文では、文化的処方における prescription を、命令ではなく「招待」「支援されたつながり」「ともにつくられた機会」として考えることを提案しています。
だからこそ大切なのは、「何を処方するか」よりも、
「この人にとって大切なものは何だろう?」
と尋ねることなのだと思います。
「紹介」から「共創」、そして「変革」へ
今回の論文で特に提示したかったのが、文化的処方を一方向の「紹介」で終わらせない考え方です。
そのヒントになるのが、社会参加型アート(Socially Engaged Art)です。
社会参加型アートでは、参加者は作品やプログラムを受け取るだけの存在ではありません。アーティストや地域の人たちと対話し、一緒に考え、つくり、時には地域そのものを変えていく「共同制作者」になります。
そこで本論文では、文化的処方を
紹介(Referral)→ 参加(Participation)→ 共創(Co-creation)→ 変革(Transformation)
という連続体として捉えるモデルを提示しました。
もちろん、「変革」まで行けば優れているという意味ではありません。美術館に行って絵を眺めたい人に、地域づくりへの参加を求める必要はありません。大切なのは、その人の希望や状況に合った関わり方を選べることです。
日本だからこそできる「文化的処方」
日本で文化的処方を考えるとき、英国などで発展してきた制度をそのまま輸入する必要はない、と考えています。
日本には、図書館、公民館、寺社、商店街、喫茶店、地域の祭り、伝統芸能、工芸、町内会、さまざまな市民活動があります。それらは「健康づくり」と名乗っていなくても、すでに人々のつながりや生きる意味を支えていることがあります。
私自身がこれまで関わってきた豊岡のコミュニティ図書館や、東京・谷根千での「屋台」を用いた地域活動なども、この論文では日本における実践を考える手がかりとして取り上げました。
医療が文化を取り込むのではなく、地域にすでにある文化の力に、医療の側が気づいていく。
文化的処方の可能性は、むしろそこにあるのではないでしょうか。
「文化を処方する」から、「文化とともに生きられる社会」へ
文化的処方にはまだ課題もあります。研究の多くは小規模で、長期的な効果や医療費削減について十分なエビデンスがあるわけではありません。芸術や文化を、安価な医療・福祉の代用品として利用することにも慎重であるべきです。
それでも、この考え方には医療の視野を広げる力があります。
健康を支えるものは、薬や病院だけではない。
好きな音楽があること。本を読める場所があること。祭りに参加すること。何かをつくること。誰かと語ること。そして、自分がその地域の一員だと思えること。
論文の最後では、文化的処方の課題を「より多くの文化を処方すること」ではなく、多様な人々が、自分自身の仕方で文化と出会い、つくり、所属し、参加できる条件を育てることだと結論づけました。
医療と文化。一見すると離れているように見える二つの領域のあいだには、実は「人はいかにしてよく生きることができるのか」という、同じ問いが流れているのだと思います。(孫)
文献情報
Son D. Cultural Prescribing: Concepts, Evidence, Implementation, and the Contribution of Socially Engaged Art. Yonago Acta Medica. 2026;69(3):248–260. doi:10.33160/yam.2026.08.006. Online published August 14, 2026.


