家庭医は、患者・家族・地域を地続きでみる
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いま、家庭医の若手医師向けのセミナーでのレクチャーを考えているところです。テーマは、日常にあふれている無自覚な「当たり前」にどうやったら気づくことができるのかなあ?ということをテーマにしたいと考えています。
その背景には、家庭医療の実践において「こうあるべき」「こうすべきだ」という言葉が、いつのまにか医師自身の思考や行動を形づくり、地域との関係の中で見落とされるものを生んでいるのではないか、という問題意識があります。
地域医療と総合診療/家庭医療の関係性についても、日々悩んでいます。いまのところ、「総合診療/家庭医療のレンズを通して地域をみる」立場と、「地域の現場から総合診療/家庭医療の必要性が立ち上がってくることを通して地域をみる」立場があるのかなあと考えています。前者は理論や制度の側から現場を整理しようとします。後者は現場の実践の中から必要を感じ取っていく、ということになります。どちらも地域医療を支える営みですが、この視点の違いは、地域における多様な住民や医療従事者との関わりの中で、境界線の引き方に差があります。「総合診療/家庭医療のレンズを通して地域をみる」立場では総合診療/家庭医療を主語に境界線を引き、「地域の現場から総合診療/家庭医療の必要性が立ち上がってくることを通して地域をみる」立場では地域を主語に境界線を引くこととなります。
この立場の違いは、“べき論”の問題と重なります。総合診療/家庭医療の教育や実践では、「SDH(健康の社会的決定要因)を考えるべき」「患者中心であるべき」といった“べき論”が語られることもあります。SDHや患者中心の医療などの家庭医療の理論は極めて重要ですが、その学びの過程で、これらが「正しい実践の基準」として固定化されてしまうと、他者を無意識に排除したり、異なる実践を見えにくくしたりする危険を孕みます。そうすることで、地域をみることができている範囲が限定的になってしまいます。
境界線を引き直し続ける
境界が生まれること自体は、専門性を持つ営みの中で避けられません。むしろ大切なのは、その境界線をどのように引き直し続けるかです。境界が排除の線ではなく、関係を再構築するための仮の線として引かれるならば、実践は開かれたままでいられます。地域医療は、もともと閉じた領域ではなく、多様な住民や医療者の総意で作られる「器」のような場です。総合診療/家庭医療もまた、その器の中で、境界線を引き直し続けることで、開かれた専門性であり続けられるのだと思います。
自明性への気づき
このような姿勢は、人類学や社会学などが追究してきた「自明性への気づき」から学ぶことができます。人類学者が異文化に出会い、自らの前提が揺らぐ経験を通して新しい理解に至るように、家庭医もまた地域のなかで様々な異文化に日々出会っています。患者の語り、地域の慣習、同僚の沈黙、組織の壁――そうした“ふだん”の中に潜む異文化、一見つながっていないように見える点在している異文化のあいだに、どのような関係があるのか。そこに目を向けることで、総合診療/家庭医療という領域そのものが、より多様なひと・もの・ことに開かれたものとして立ち上がってくるかもしれません。
日常の場面を入り口にする
いま考えているレクチャーでは、こうした理論的背景をもとに、具体的な診療・教育・地域活動の事例を通して“べき論”をほどく実践を考える時間にしたいと思っています。たとえば――
「通院してと伝えても通院してくれない高齢患者」を、“怠惰”とみるか、“生活の知恵”とみるか。
「沈黙するカンファレンス」を、“意見がない”とみるか、“関係性の表現”とみるか。
「若手医師が思い通りに動かない状況」を、“指導不足”とみるか、“まなざしの違い”と受け止めるか。
このような日常の場面こそ、自明性への気づきを促す入り口です。
レクチャーを通して、聞いてくれる若手医師の先生方が自分自身の“べき論”や“当たり前”に気づき、それを少しずつほどいていく過程を体験できるようにしたいと思っています。その過程で、家庭医が見ている世界が少しだけ違って見え始める――そんな時間を、ともに過ごしたいと考えています。
Author:井上 和興
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